躁鬱の随に。

躁鬱人が人知れず想いの丈を綴った記録。

躁鬱のアイデンティティ。

今日は久々にビールを飲んだ。

この前の飲み会以来だから二週間ぶり。

今は酔いも覚め、スッキリしている。

 

どうにもやりたいことができない鬱憤が溜まり、ビールを一缶飲み干してしまった。

僕は滅法お酒に弱い。下戸である。

 

普段はお酒を飲まないが、プライベートで憂さ晴らしに飲むことがある。

それでも寝つきが悪くなるので、飲酒は極まれだ。

 

コロナ禍で付き合いがなくなり、半年飲まずにいたこともあった。

どうも、顔が赤くなるのは早いのに陶酔感は低く、お酒を飲むメリットをなかなか見出せない。

 

これは、躁鬱気質とその治療薬の弊害だと思っている。

人は飲酒すると脳にドーパミンが放出され、その影響で多幸感が出るのだが、実は、躁鬱病はドーパミン過剰分泌が原因の病気なのだ。

 

すなわち、普段からドーパミンが出やすい体質だからこそ、特別に飲酒において多幸感を感じないのではないかと思っている。

服薬し、ドーパミン放出を抑えているなら尚更だ。

 

僕も、初めて躁転したときは、ドーパミン過剰分泌によるとんでもない万能感と多幸感を経験した。

この爆発的な万能感と多幸感を忘れられず、躁鬱を繰り返してしまう人もいるらしい。

 

かく言う僕も、躁状態の絶好調を忘れられず、二度目の躁転を繰り返してしまった一人だ。

躁状態をキープしたいという執着に囚われいた。

 

しかし、躁状態はキープできるようなものではない。

大抵その期間は短く、後には代償として長く重い鬱がやってくる。

 

今は躁の波を厄介に思っている。

躁はエネルギーを浪費する。

今まで溜め込んだエネルギーを簡単に手放してしまう。

 

しかし、今ではこの躁鬱気質を自分なりに気に入っている。

病状を来たさない程度に躁鬱の波に乗ることは、日々の彩りとなっている。

 

躁鬱の繰り返しにより抱えたフラストレーションを、創作で発散するのも面白い。

僕はフラストレーションを抱えると、度々絵を書いたり曲を作ったりするが、やはりこれも躁鬱気質ならではではないかと思う。

 

躁鬱病だからこそ、多彩に生きられる。

今や躁鬱は、僕にとってなくてはならないアイデンティティのひとつだ。