躁鬱の随に。

躁鬱人が人知れず想いの丈を綴った記録。

気を沈める。

今日は一日何もしないでいられた。

 

休んでいると、久々に気を沈める感覚が戻ってきた。

久しい感覚だった。

 

「気を沈める」とは、自分の気の高まりを丹田のところまで沈める感覚だ。

「気を鎮める」とも書くが、落ち着けるというよりも、気持ちを深くに沈めるイメージの方がしっくりくる。

 

気を沈めると、自然と呼吸が深くなる。

頭が沈静化し、静けさと共に頭が冴えてくる。

禅の実践に近い。

 

この感覚は、高校の頃、鬱を発症した時に体得したものだ。

腹式呼吸を意識しただけで生きるのが楽になったのを覚えている。

 

気を深めると、思考がクリアになり、生きるのに必要なエネルギーが節制される。

 

気を沈める感覚は、躁の高まりを感じた時にも使える。

高まる気を沈めると、深い気を練ることができる。

 

躁と対極にある抑鬱状態を、自分の意思で引き起こしているような感覚だ。

しかし、自分の意図しない鬱状態とは違い、エネルギーは枯渇していない。

むしろ、腹の中(丹田)でエネルギーの高まりを感じる。

 

こんなことを書くと胡散臭い気功家のように思われるかもしれない。

要は僕の躁を抑える処世術だ。

躁鬱病の方なら、躁を抑えるという感覚をわかってもらえるのではないかと思う。

 

躁鬱を体験すると、自分の気の起りに敏感になる。

自分がいま躁なのか、鬱なのか、それがわかるだけでも治療は進むものだ。

 

頭の沈静化は、それだけで生きるのが楽になる。

頭の喧騒から、静けさが戻ってくる。

 

思考の深化は、静観だ。

静けさが、明日を迎える。