躁鬱の随に。

躁鬱人が人知れず想いの丈を綴った記録。

才能の焦点。

才能ってなんだろう。と思う。

SNSなどで人の創作物を見るたび、自分の才能を問うてしまう。

 

決まって自分より少し上の出来に嫉妬する。

自分の才能とかけ離れたものを見るとかえってそのような想いが湧かないのは、無意識のうちに負ける土俵に立つのを避けているからだろうか。

 

 

才能は多種多様だ。

人の数だけあると言ってもいい。

 

しかし、才能が才能として認識されるときには、元あった多種多様な才能の形が枠組みにはめられ、個々のカテゴリ基準の数値順で並べられてしまう。

 

才能とは形あるもので、ある一片を切り取って数値化し、比べるられるようなものではない。

わかってはいるが、それでも横に並べては比べてしまう。

 

 

SNSなどに挙げられた時点で、だいぶ才能の形が切り取られている。

その人の人生の、ごく一部にしか焦点が当たっていない。

 

ごく一部の焦点と自分とを比べるのに慣れてしまったせいか、自分の才能を考える時にも狭まった視点で自分の才能を切り取ってしまっている気がする。

 

 

少なくとも自分の才能について考える時には、もっと立体的に自分の才を理解する必要がある。

才能の“形“を知るだけで、それは比べようもないものだと腑に落とせる気がする。

 

強いては自分の人生を見ていく必要がある。

これまで歩いてきた道のりの数だけ、才能の形は変容しているはずだ。

 

自覚できないことも含めて、あらゆるスキルを習得しながら、または見限りながらここまで生きてきたはず。

自身の才能への納得には、その変容の過程への理解が求められるだろう。

 

 

今ある才能の形を知ることは、確固たるアイデンティティを自認することに他ならない。

これまでの自己実現が問われる。

 

そして自分の未熟さを知ることになるだろう。

しかしそれは将来への期待と裏腹だ。

 

行動の数だけ才能は形を変える。

更なる変容を求め、期待に終わるか一歩踏み出すかは自分次第だ。