躁鬱の随に。

躁鬱人が人知れず想いの丈を綴った記録。

何もできなかった日、有意義を考える。

何かしたいのに、何もできないという感覚に襲われている。

 

これは、「何かしたい」とは思うのだが、頭が疲れていて何もできないと言う状態だ。

こういったとき、大抵受動的な趣味に流れてしまう。

Twitterやゲーム、YouTubeなど。

 

そこでは、ダダ漏れの刺激に脳を晒すだけで、生産性がない。

 

そもそも、趣味を確立させようと思った動機は、これらの中毒的習慣を断つためにあった。

これらに費やした時間を、有意義な趣味に費やせられればどれだけ充実できたことか。

 

それでも、今日もジャンキーな時間つぶしに流れてしまう。

 

もちろん、無意味に思えることでも、実は意味があったりすることは頭では理解している。

それでも、貪りに心を任せた途方もない時間を考えると、どうしようもなく頭が重くなる。

 

一日の終わりに、「結局何もできなかった。」と思うことが一番つらい。

たちまちに、今日という日が否定される。

 

 

少しでも、有意義な時間を過ごせられれば、自己肯定感を損ねることはない。

しかし、有意義って一体なんだろうか。

 

僕は、今やっていることが今後につながるものならば、それは有意義であったと思える。

例えばスキルを高められ、向上できるものがそれに当たる。

 

とにかく何かを錬磨する時間が好きなのだ。

唯一無二に高める作業に喜びを感じる。

 

人は、成長したい生き物だ。

少しでも前へ進んだ実感があるだけで、今日を生きていられる。

 

何かを高める。何かを磨く。

そうした研鑽の先に、自分の人生への納得があるように思う。

 

しかし、そうは言ってもいつも充実した時を過ごせるとは限らない。

有意義な時間が、無意味な時間の下積みで成り立っていることも多々ある。

 

結局は、受動的な物事への取り組みを、能動的に切り替えることが充実のコツなんだと思う。

無意味に思えることだって、外からの刺激を待つだけでなく、自分から働きかけることができれば、時間の過ごし方が変わるはずだ。

 

能動的な時間が、自分を夢中にする。

 

自分で舵を切ること。

これは、他ならぬ自分の人生を生きる上での鉄則だ。