躁鬱の随に。

躁鬱人が人知れず想いの丈を綴った記録。

休む英断。

今日は15時ごろ仕事を終えた。

一日休みの予定だったが、昼に葬式が入ってしまった。

せっかくなので午前中も用事を済ますべく車を走らせていた。

 

いささか疲れが見え始めた。

明日も四件のお参りが入っている。

 

寺の仕事というのは土壇場で急用が入ることが多い。

いつ仕事に駆り出されてもいいように、コンスタントに休みを取るしかない。

 

 

大学時代の後半になるまで、僕は休み方というものを知らなかった。

 

当時の僕は、頑張ることでしか報われないと思い込んでいた。

今でこそ、横になって心を空っぽにし、無になるということを覚え出したが、当時は一辺倒に体を動かすほかなかった。

 

当然、体の疲労は溜まる一方。

鬱の自覚もなく、パフォーマンスが思うように出せないことが一番の悩みだった。

 

休むことの効能は、思いのほか大きい。

休むことは、その後の仕事のアドバンテージとなる。

 

休むことは悪いことじゃない。

怠けでもなんでもない。

働く者にとっての必然だ。

 

働けていない、と自分を責めることもない。

生きているだけで十分、他へ働きかけている。

 

鬱を患う者にとって、休むことほど不得意なものはない。

 

それでも。

今は、休む。

その英断が明日を支える。

 

休む英断が、明日を作る。

鬱を乗り越えるのは、今ある休みだ。