躁鬱の随に。

躁鬱人が人知れず想いの丈を綴った記録。

それは執念。

今日の仕事が終わった。

今日は土壇場で入ったお参りもあったが、どうにかこなすことができた。

 

午前中からほぼフルで動いたのは初めてかもしれない。

着実に体が慣れてきている。

 

去年の今頃はオンラインの授業をこなすだけで精一杯だった。

大した進歩だ。

 

体の慣れというものが、こんなにも心強いものだとは思わなかった。

 

もちろん、休息を怠ればいずれガタが来るのだろう。

それでも、今動けていることが嬉しい。

 

三年前の鬱のどん底にいた時は、自分が働いているところを想像できなかった。

だからこそ絶望した。

 

自死の想いが体を蝕む中で、ギリギリの想いで生きていてよかった。

絶望の中でも諦められなかった執念が、今こうして実っているのだと思う。

 

希望というには無様で、醜い執念。

それが、当時の僕を生き長らえさせていた。

 

それでも生きていてよかった。

今は報われていることを、当時の僕に伝えたい。

 

だが、結局このような希望は結果論だ。

結果の出ない悪循環の最中では伝わらないだろう。

 

それでも、自死に駆られていても、生きているからには自分の中に執念があるはずだ。

 

希望というには無様で、醜い執念。

決して人様に見せられないものであったとしても、今はそれを頼りに生きてほしい。

 

粘り強くというのは、きっと現実には泥臭い様だ。

 

泥に塗れても生きる。

これは、当時の僕から贈られた決意だ。